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in (北)朝鮮&新潟

「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる」
2017年9月11日(月)〜15日(金)
核実験が止まらない朝鮮民主主義人民共和国(北)朝鮮へ視察。
もっとも危険だと言われたXデー。

60万円と引き換えに手にしたのは、4泊5日のチケット。

見るのは・・・夢か現実か。それとも

2017年9月15日(金) 朝鮮 06:02|日本 06:32
ミサイル発射25分前———。

Xの目線か。

2017年9月20日(水)〜21日(木)
1977年11月15日(火)、ある一人の少女が忽然と姿を消した新潟県を視察。

メディアが語れない真実と、最新の写真と動画を一部公開。
はじめに。

朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」と称する)の歴史の背景には3つの大きな課題が存在する。それは離散家族再会をはじめ、核実験問題と朝鮮南北統一問題である。問題解決の方法を模索する前提として、まずこれらの三大課題に注目しなければならない。

2018年 朝鮮三大課題

(1) 離散家族再会

一部の朝鮮人工作員によって日本人が拉致され40年以上が経過する。今では「どのように連れ去られたかではなく、どのように育ったか」によって心境が変わる。私が自ら現地へ滞在できるのであれば、一定の期間をかけて観光事業などの外交関係を築き上げていくことも一つの方法かもしれない。

(2) 核実験問題

現地の方々はこう語った。「孤立に耐えてきた朝鮮人にとって、ミサイルは、唯一自慢できる高度な技術であり、決して戦争のためではない」。
個人的な見解としては、核実験の動きは世界の評価の仕方にあると考える。

(3) 朝鮮統一問題

1980年10月10日(金) 第6次朝鮮労働党大会において提唱された内容は、金日成主席の本にもこのように述べられている。「全民族大団結の原則で国の平和統一を実現するためには、二つの体制、二つの政府をそのままにして全民族の利益を代弁する統一的な民族国家を創設するほかに道はないことを現実は語っている。そのような意味で高麗民主連邦共和国の創立はもっとも正しく合理的な統一法案だろう」。戦後唯一壁が残る国としても、本当に和解できるのは同じ朝鮮半島である韓国の他にないだろう。

目次 [非表示]
現地の掟 科学技術殿堂 朝鮮美人
(1)国の呼称 チュチェ思想塔 朝鮮料理
(2)最高指導者の呼称 大同江川 朝鮮のお菓子
視察の経緯 メーデースタジアム 2017年9月15日(金)
チケットの購入 党創立記念党 ミサイル発射25分前———。
日本〜中国 2017年9月11日(月)〜12日(火) 万景台の生家 ミサイル発射 2分前———。
(1)羽田空港出発 平壌地下鉄 平壌国際空港到着
(2)北京空港到着 万景台学生少年宮殿(動画付き) お世話になったガイドの御二方
中国〜朝鮮 2017年9月12日(火)〜15日(金) カラオケ地下1F (平壌高麗ホテル) 北京空港到着〜出発
(1)北京空港出発 祖国統一3大憲章記念塔 一通のハガキ
(2)平壌空港到着 平壌開城高速道路(動画付き) 振り返って。
平壌市中心部案内図 停戦協定調印場
凱旋門 板門店 日本と朝鮮の歴史
柳京ホテル 38度線 新潟県視察
平壌高麗ホテル(動画付き) 高麗成均館(世界文化遺産) 今から41年前———。
モーニングエール 善竹橋(世界文化遺産) 新潟駅到着
万寿台大記念碑 表忠碑(世界文化遺産) 現在の朝鮮と新潟を比較
金日成広場 切手販売店(高麗成均館門前) 新潟に立つ看板
未来科学者通り 平壌サーカス劇場(動画付き) 最後に。

現地の掟

(1) 国の呼称

まずは、多くの方が間違えて呼ぶ「北朝鮮」。正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」であり、省略する場合は「朝鮮」ないしは「共和国」と呼ぶことが現地の掟である。現在は南北で分裂中のため両国ともに「北」や「南」をつけて呼ぶ発言は対立国を連想させるため十分に気をつけたほうがいい。
英和では、‘’Democratic People's Republic of Korea’’及びDPRKと略す。

(2) 最高指導者の呼称

現地での会話に最高指導者の名前を含む場合には、原則下記の敬称のもと呼ぶ必要がある。

視察の経緯

2017年8月9日(水)、朝鮮中央通信(KCNA)は、中距離弾道ミサイル4発を米領グアムに向けて発射する計画を8月中旬までに策定すると告げた。

私は初の株デビュー月に100万円投資するも、朝鮮報道により最終的には資産価値が約30万円も下落。その反動から現地視察を決意。

この時、軍事関係の株だけが奮闘していたことを覚えている。日本の上空にミサイルが通過する多くの危険と不安を現地の方々に伝えると、「驚かせてしまった事は申し訳ないと思うが、自国は正確な距離へ飛ばすことができる技術力を自慢しているだけ」と答えた。理屈で通じないことは理解したが、こうして現地に入らないと分からない国民性にも気づけた。

チケットの購入

航空券は中外旅行会社を経由して購入。ここを選んだ理由は、朝鮮行きに関する代行業務が古くから行われており、電話の応対も良かったから。合計金額は、4泊5日で31万9000円。この料金の内訳には、私のためのホテル代や食費だけでなく、中国人ガイドが北京で一泊宿泊するホテル代と、日本語を話せる朝鮮人ガイド2人とドライバー1人の三日分の生活費全てが含まれている。このツアーは、彼らと常に同行することが条件となっている。

現地で使用したお金は+2万円程度。使用可能な通貨は、日本円をはじめ、中国元、ユーロ、ドルなどと幅広い紙幣での支払いが可。クレジットカードは不可。

日本〜中国 2017年9月11日(月)〜12日(火)

(1)羽田空港出発。日本 16:30

相手に心を左右されるということは「痛い」よりも「辛い」。家庭を築けば、帰るべき場所があって待つべき場所もある。
そして日本人の多くは神を信じないが、相手の目にどう映るかを常に恐れている。目に見えるものが全てではないということに気づかなければ、相手の心境はもっと分からないだろう。

(2)北京空港到着。中国 19:30|日本 20:30

1日目は中国の北京に滞在。とても親切で優しい中国人ガイドと一緒にディナー。赤カブとパクチーのサラダをはじめラム肉の串は絶品。

中国〜朝鮮 2017年9月12日(火)〜15日(金)

(1)北京空港出発。中国 13:05|日本 14:05

ここの朝鮮行きチェックインカウンターを撮影した際には、朝鮮バッジを付けたスタッフに険しい顔でこちらに近づき、どうして撮影したのかを問われるところからはじまった。朝鮮に行く事を伝えると、急にご機嫌な笑みで頷き目の前を立ち去った。

機内では、音楽番組を見たり、

新聞を読んだりと他の航空会社との大差はない。

(2)平壌国際空港到着(順安国際空港)朝鮮 15:35|日本 16:05

出入国審査カウンターに足を踏み入れると、話し声一つしない空間に緊張感が漂っていた。ひとまず言える事は、この場に居合わせていた全員が私の首から下げるカメラに注目していたことだ。

平壌空港では精密な監査が行われた。電子機器よりも、人の目を欺きそうな漫画本に何か仕込まれていないか各一ページを丁寧にチェックしていた。WiFi機器は帰国日まで空港に預けることが原則だった。

空港周りは、国民の方々の手によって綺麗で色鮮やかに整備されていた。 始めに向かった先は平壌のランドマークとも言われる場所。空港から車で15分程度走行した場所にある。

平壌市中心部案内図

凱旋門(がいせんもん)-1985年4月15日(月)-

牡丹峰(もらんぼん)の麓(ふもと)に建立。 金日成主席は抗日武装を繰り広げ、日帝植民地統治から朝鮮の解放を成し遂げて祖国に凱旋。4本の柱には浮き彫りの群像と主席が革命の途についた時から解放を成し遂げるまでの年代を表した「1925」と「1945」の数字、そして「金日成将軍の歌」がレリーフされている。

高さは60m、正面幅52.5m、側面幅36.2m、アーチ門の高さ27m、アーチ門の幅18.6mと世界で一番大きい凱旋門で、1万500余個の花崗岩で造られている。

展望台に上がる前には、まず5分ほどの動画をみて凱旋門の歴史を知る。

ここではお土産も購入できるため、チュチェ哲学について(2002)、朝鮮戦争のこだま(1996)、朝鮮観光(2014)の三冊を購入。文章は極めて洗練された日本語で翻訳されている。

柳京ホテル(リュウキョウ)

1987年起工・1992年中断。中断から16年が経過したころ、エジプトの通信大手オラスコム・テレコムの投資により2008年再開。30年を経て2017年開業(?)。高さ330m/105階建てと世界2位に続く超高層ホテルとなる。投資金額はウィキペディアの情報によると約144億円と記載されている。

平壌高麗ホテル(ピョンヤンコウライ)-設立日不明-

住所は平壌市中区域東興洞(蒼光通り)。平壌駅から左に約200m離れた所に位置している。高さは143m/45階建てのツインタワーのホテルで1000余人の収容能力もあり、最上階は平壌市全景を眺望できる回転展望レストランや、お洒落なバーやカラオケなどの娯楽施設も完備する。また朝鮮の電源電圧は220V、周波数60Hzであるが日本に対応する「100V50〜60Hz」対応のコンセントも常備されている。利用経験のある日本の著名人の方として、元プロレスラーのアントニオ猪木さんや元総理大臣の小泉純一郎さんなどの名前があげられる。

動画

国際ホテルの中では、毎日NHKワールドが視聴できる。
民間住宅では週末のみ見れるらしい。

動画

朝鮮の音楽番組

外国人観光客は自身の通信機器からの連絡は一切禁止されているが、唯一ホテルの1階にメールのみ許可されているパソコンが一台設置されている。

モーニングエール。朝鮮 08:14|日本 08:44

朝食を済ませホテルを出発すると、女性軍が通勤するビジネスマン達へ朝のエールを送っていた。これは朝の弱い私にとっては非常に羨ましいサービスだ。

万寿台大記念碑(まんじゅだいだいきねんひ)

万寿台の頂上付近にある金日成像(1972年4月健立)と金正日像(2012年4月健立)が並ぶ。背後は朝鮮革命博物館・両側は大記念塔。ここは神聖な場所とされているため敬意を捧げるかは任意の場とされている。周囲は黙々と花束を掲げられる方が現れ緊張感が漂う。

私も世界の平和を願い敬意を捧げさせていただいた。

現地では、新型車も流通しているが旧型車も多く見受けられる。写真の車種は恐らく1970年代に流通したメルセデスベンツ230Eだと思われる。

現地の人々のヘアースタイルは黒髮で、服装は落ち着いたカーキや灰色をベースにしている。まるで小さい頃、親のアルバムで見た写真の中に来ているような、不思議な気持ちで一杯になった。

金日成広場 -1954年8月竣工-

世界で16番目に大きい中央広場。面積は75000㎡で地面は花崗岩で作られたタイルが敷き詰められている。

人類が生息する地球には必ず「陰」と「陽」があり、その人の目が届かないところで、掛け替えのない多くの力が働いて世界が成り立っている。

未来科学者通り

大同江(テドンガン)沿いに建設された独創性と芸術性を揃える高層住宅群。 3〜4千世帯前後の住居や国家の科学研究機関をはじめ、教育機関、公園などと150余りの住商複合施設が並ぶ。住居者は主に大学教授や功績を持つ方が多い。また、朝鮮では住居や学校の授業は無料で提供されており、食糧も配給制である。給与体系は歩合制度で、月々1〜10万円くらいだという。

科学技術殿堂 -2015年10月建設-

科学に纏わる様々な想いが詰まっており、体験型の展示がいくつも設けられていた。3Dゴーグルを掛けたジェットコースター体験なども行うことができた。

科学技術殿堂では、金正恩委員長が座った各椅子やエレベーターにも札が貼られ貴重なものとしていた。彼が見ている未来には一体どれほどの過去が今後描かれるのだろうか。

こうして子供達が自由に過ごしている時間を見ると安心する。

もちろん朝鮮でもスマートフォンは普及していて、アプリやゲームも沢山あるが、使用できる人間は限られているそうだ。写真に映る機種のメーカーは「Pyongyan」。

チュチェ思想塔 -1982年4月健立-

金日成主席の生誕70周年を記念に健立。高さ170m/伝統的な朝鮮式石塔建築の様式を生かし白色花崗石を積み重ねて立つ。使用された石の数は365×70周年分の25500個。展望台まではエレベーターで上がり、平壌の市街地を展望できる。

大同江(テドンガン)川

朝鮮半島の北西部を流れる河川と周りには6つの橋が特徴的。全長は439㎞/面積20,000㎢の流域面積を有する第5位に続く大河である。
写真には写っていないが、左から順に紹介すると忠誠の橋、薄っすらと見える羊角橋、大同橋、金日成広場(1965年)、玉流橋(1960年)が見える。奥には綾羅橋(1988年)、薄っすらと写る清流橋、メーデースタジアム(1989年)が映る。

メーデースタジアム -1989年5月1日(月)竣工-

パラシュート型の建築美が特徴的で、大同江の中洲綾羅島に位置し平壌の名勝地として有名。座席は15万席を超え世界で12番目の規模を持つ最大競技場である。1995年4月28日(金)〜29日(土)には、朝鮮政府・新日本プロレス・WCW協力の元、「スポーツと平和の祭典」が開催。2日間で計38万人と言われる大観衆を動員した。当時、アントニオ猪木氏の師匠である力道山氏が朝鮮半島出身であったことなどから、新日本プロレスが強力に推進したそうだ。

党創立記念党 -1995年10月健立-

朝鮮労働党創立50周年を迎えて健立 -高さは50m(50周年の意味から由来)。円形帯には「朝鮮人民の全ての勝利の組織者であり嚮導者である朝鮮労働党万歳!」というスローガンが刻まれている。帯は領袖、党、大衆の一心団結を示す。

万景台の生家

万景台は、「金日成主席」が誕生し幼年期を過ごした由緒の深い地である。 当時、朝鮮の農村ならばどこでも見受けられた藁葺き(わらぶき)屋根の素朴な家で誕生し幼少期を過ごした。主席の曽祖父(そうそふ)金膺禹(きむうんう)先生の代から4 代を継いで暮らして来た。生家には主席と一家の人たちが愛用していた家財道具などが保存されている。

平壌地下鉄 -1960年建設・1973年9月6日(木)開通(2018年現在・駅数17駅/3路線)-

現時点では世界一の深さと言われるほど、核シェルター(避難所)も兼ねて作られている。エスカレーターは片道3分かかる。青いワイシャツを着る男性は僕のガイドであり、混雑時にはお年寄りに席を譲る程のジェントルマンだ。

道を歩けば、無垢な笑顔を持つ可愛い少年とも出会った。
この子の笑顔を目の前に、どれ程の数の人間が平和になるだろうか。

万景台学生少年宮殿 -1989年5月-

1日に数千人の青少年学生が自分の希望と素質に合う様々な課外活動に参加し技術を学んでいる。外観の様式は両腕を広げて児童達を抱え込む温かな懐を表し建築されている。建物の中は百数十のサークル室、プール、体育館などがある。時にはスカウト活動を行ない半年間の教育期間を設けて子供達の才能を開花させているそうだ。

「子供達は我が国の宝物です。未来の朝鮮は我々の子供たちのものです。金日成」と書かれている。

頭にツボを乗せて回転している子は未だかつて見たことがない。

人間の可能性は無限大のようだな。

動画
動画

一時間にわたる子供達の団結と演奏力は非常に素晴らしかった。今では子供達からも多くのことを学べる時代になり、常に成長の過程を歩むことができる。

自分の盲点を解放することでより多くの情報が脳に浸透してくるようになった。

夕食の時間を迎えレストランに移動。

平壌名物の石焼ビビンバ。
普段、食べる機会がないから本場料理を現地でいただけるのは幸運である。
味はご想像にお任せいたします。

カラオケ地下1F (平壌高麗ホテル)

食事を済ませ高麗ホテルの地下にあるカラオケへ移動。私の我儘を多く聞いていただいたガイドの御二方へ感謝の気持ちを込めて一杯。

カラオケのママさんを始め皆が、坂本九さんの曲「上を向いて歩こう」を歌ってくれた。この曲は、いつの日も日本と朝鮮との対話を諦めない一人の男性がここで歌った曲である。この曲の歌詞に込められた意味を理解し、日本の音楽をこよなく愛し、歌うガイド、そしてママたちの姿。気持ちが込められた曲の向こうには人々の心に浸透し平和を保つ力がある。

そんな一夜が過ぎた朝の7時40分。

本日、向かう先は板門店。

祖国統一3大憲章記念塔 -2001年8月-

平壌の開城高速道路の入り口近くに立ち、北と南を表す二人の女性が祖国統一3大憲章マークを掲げた姿をモデルにしている。

平壌開城高速道路 -1992年4月12日(日)竣工-

実際に動画で体験していただこう。

動画

途中はサービスエリアに立ち寄り、美味しいコーヒーをいただいた。

停戦協定調印場

1950年6月25日(日)に朝鮮戦争が勃発。
1953年7月27日(月)午前10時に朝鮮戦争休戦協定が結ばれる(署名)。
内容は、「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」と規定。しかし、最終的な平和解決(平和条約)は未だ成立していない。また当時の李承晩(り・しょうばん)大統領と金日成主席の間にはお互いに南北統一を求めていた見解もあったが、人的物的損失が相当なものであったことなどから休戦交渉へと傾斜していった。

当時の写真。板門店で休戦協定に署名する両軍代表の姿。

(ウィキペディア引用)
-署名者一覧
アメリカ陸軍中将:ウィリアム・ハリソン・Jr
朝鮮人民軍大将:南日(ナム・イル)
国連軍総司令官:マーク・ウェイン・クラーク
中国人民志願軍司令員:彭徳懐(ほう とくかい)
朝鮮人民軍最高司令官:金日成(きむ いるそん)

板門店(はんもんてん)-1951年10月25日(木)誕生-

板門店は朝鮮分断を象徴する要地。開城市から東南方へ8㎞/ソウルまでの距離は70㎞。元々は開城とソウル間の道路上の村ではあったが、朝鮮戦争の停戦談判が行われたことにより有名になった。1953年以降、南北軍事境界線上には中立国監視委員会や軍事停戦委員会などの施設を設置。北側は朝鮮軍、南側は韓国軍が警備に当たっている。北朝鮮側には「板門閣」「統一閣」、韓国側には「自由の家」「平和の家」など会議が可能な施設がある。

38度線 -1945年8月15日(水)-

38度線とは、第二次世界大戦末期に西側諸国(アメリカ・イギリス)と東側(ソ連)が朝鮮半島を分割して占領した際に、朝鮮半島を横切る北緯38度に引かれたラインを指す。そのため、南側(韓国)は西側諸国の方針で資本主義となり、北側(朝鮮)はソ連の主導で社会主義となった。

板門店を後に高麗成均館へ移動。

高麗成均館(世界文化遺産)

992年:最高教育機関である「国子監」が創立。
1308年:大成殿などの増設。「成均館」へ名称を変更。
1592年〜1598年:壬辰祖国(じんしんそこく)戦争。
※日本の侵略者に反対し繰り広げられた反侵略戦争。
1602年:壬辰祖国戦争時に焼失したものを復元。

成均館は両班の子弟に封建的な儒教教理を教え、官吏を養成する教育機関であっただけではなく、有名な儒学者たちを祀って祭事を行う場所でもあった。20余棟の建物からなるが、基本の建物は南北方向に配置されている。現在は高麗博物館として1千余点の歴史遺物と資料が展示されている。前庭には1000年以上の年輪を刻むイチョウの木とケヤキがある。

善竹橋(世界文化遺産)-1216年に架けられた小さな石橋-

1392年(高麗末期):李成桂(り・そんげ)一派が高麗王朝の忠臣、鄭夢周(ちょん・もんじゅ)を殺害した場所である。初めは選地橋と呼ばれていたが、鄭夢周の流した血の跡から竹が生えたと伝えられ、「善竹橋」と呼ばれるようになった。
1780年:鄭夢周の子孫である鄭好仁(ちょん・ほいん)が故人を追慕(ついぼ)して橋に欄干(らんかん)をめぐらせ、その横にもう一つの石橋を架けた。

表忠碑(ひょうちゅうひ)-1740年(左)1872年(右)-

高麗王朝の忠臣であった鄭夢周のように、朝鮮封健王朝に尽くせという意図から立てた石碑である。

切手販売店(高麗成均館門前)

ここでは日本の自宅宛に送るハガキを購入。郵便物はホテルの1Fで提出可。

平壌サーカス劇場 -2002年開館-

万景台区域の光腹通り沿いに位置する。主要可能人数は3500人。
人生初のサーカスを国外で。感慨無量。現地オプション料金3000円。

動画

朝鮮美人

カテゴリーに分けると左から順に、清楚系、体育会系、昭和アイドル系、妹系、不思議ちゃん系といったところだろうか。

※現地の案内人と店員さんたち。

そんな不思議ちゃんが継いでくれた大同江ビールはこちら。
泡との比率は5:5。味を感じるまでの間に楽しみを感じさせてくれた。

朝鮮料理

朝鮮半島由来の冷麺、参鶏湯(サムゲタン)、アヒルの焼肉などが有名。参鶏湯とは鶏肉と高麗人参、椎茸、もち米など他にも栄養価の高い食材を煮込んだ料理である。現地ではオプション3000円で食べられる。薬膳料理や補身料理(ポシン料理・滋養食)ともされている。

私は毎回完食するのだが、時には完食した食器を見て、「十分な量を用意することができず申し訳ありません」とさえ言われることもあった。また、朝鮮人の方は、人に対する区別を「好き」か「嫌い」の二択で尋ねても、「温かい」または「冷たい」という品のある表現で返ってくる。他国の方に対しても個人の判断で評価を下げるような発言はしない。人に対する信用も、あくまで期待はしても結果が全てという現実的な一つ一つの会話に関心を抱いた。平壌での最後の晩餐は「アヒルの焼肉」。普段、水辺で生息するアヒルの肉は歯ごたえがあり、噛めば噛むほど甘くてジューシー。これは、一言でアヒルに惚れた。

朝鮮のお菓子

こちらの写真は平壌のスーパーで購入したお菓子。残念ながら店内での撮影は制限されてしまったが、1Fは食料品で上の階は洋服や家電製品も売っていた。左の商品は、味覚から読み取る限りでは、ジャガイモ、塩、植物油、牛肉味の調味料などが混ざった薄味のポテトチップスといったところだろうか。

3泊4日はあっという間だった。私が驚いたことは決して「脅威」ではなく現地の方々の「礼節」と「義理人情」だった。

この日はホテルに戻り次の日の帰国に備え就床。

2017年9月15日(金) 朝鮮 06:02|日本 06:32

ミサイル発射25分前———。

現地ではほとんどの人間が知る由もなく事態は急変していただろう。
朝日と同時に目が覚め、偶然にもホテルから日の出を撮影していたとき、既にミサイル発射の準備が始まっていたのだ。

ミサイル発射2分前———。

06:25|06:55 -平壌朝食-
私はこの時間にミサイルが発射されていたという情報を帰国途中の北京空港で知った。
写真の撮影時間も全て洗い出し、本当にこの国から飛んだのかさえも疑わしいほどに現地の方々も知らなかったのではないだろうか。

06:27|06:57 -ミサイル発射(場所は平壌付近の順安(すなん)地区とのこと)
06:31|07:01 -Jアラート警報
06:34|07:04 -北海道上空通過

06:39|07:09 -ホテル出発-

06:46|07:16
ミサイルは襟裳岬(えりもみさき)東約2200㎞太平洋上に落下。
最高高度は約800㎞、飛行距離は過去最長の3700㎞。
朝鮮からグアムまでの距離は約3400㎞。

07:00|07:30(空港に向かう車内)
お世話になった日本語ガイド歴10年の女性ガイド・李(リー)さんには、自社ブランドのオリジナルTシャツをプレゼントし、そして爪を磨いてあげた。

平壌国際空港到着(順安国際空港)07:10|07:40

日本語ガイド歴5年の男性ガイドの金(キム)さんにも同様に自社ブランドのTシャツをプレゼントした。実は、このTシャツの金額を日本語特有の語呂合わせで読むと特別な意味が浮かび上がる。商品価格は、税抜11351円。日本語で「いいみらい」と読み、税込で12259円。「じゆうににゅうこく」という文字が浮かび上がる。この数字が意味している「良い未来」 とは、「自由に入国」できるような世界に壁を必要としないことを訴えているのかもしれない。

07:21|07:51 –空港内

お世話になったガイドの御二方

二人は日本の世界遺産にも明るく、近い未来には日本の観光を夢見ていた。お二人はとても親切で堅実。プライベートの話も腹を割って聞かせてくれるほどお互いに信頼を築けた。何が一番私の心を動かしたかというと、ここには映っていないがドライバーのキムさんに対するガイドのリーさんの思いやりと気遣い。ドライバーのキムさんは、食事の時は毎食一緒なのだが残念ながら一緒にお酒は飲めず、誰よりも早く食べて車内に戻り私を待機しなければならない。リーさんはそれを横目で追い、自分のメインディッシュを持ち帰り用のタッパに詰め、朝早くから夜遅くまで運転するキムさんのために「お酒のつまみ」を作っていたのだ。自分のご褒美を他人に優先できる人間は極めて希少だ。

最後に、私は今まで盗聴されていたのかを尋ねると「していないと答えても信じられないでしょう」と笑みを見せながら答えた。最初から最後まで失礼な質問ばかりしていた私だが、嫌な顔一つ見せず真剣に答え続けてくれたガイド達には感謝しかない。

北京空港到着。中国 10:00|日本 11:00

5日ぶりに電波を拾い日本の友人からメッセージを受信した。
「今朝、朝鮮からミサイルが発射されたようだけど無事に帰国出来るのか?」というメッセージだった。ほんの僅か数時間前のホテルや空港で過ごした時間を何度振り返っても全く信じ難い情報だった。そして無事に帰国しその日の幕は閉じた。

一通のハガキ

帰国から2週間が経過し、平壌から自分に宛てた一通のハガキを無事受け取ることができた。

振り返って。

現地では、沢山の方々と触れ合ったが、非常に親切で純粋な方が多かった。目は口ほどにモノをいうから間違いない。朝鮮の人口は約2500万人、韓国は5000万人程。平壌を抜ければ山や畑が多いのは否めないが、観光地は各地にある。もし南北統一が実現した際には新たな観光地が期待できるだろう。

日本と朝鮮の歴史

以上が、朝鮮の「現在」をレポートしたものであったが、これまでの朝鮮と日本の歴史について改めて振り返る。

1910年8月29日(月)〜1945年9月2日(日)
当時、朝鮮半島は日本(大日本帝国)の植民地であり、「日韓併合」や「日本統治時代」などとも呼んだ。

1937年7月7日(水)
盧溝橋(ろこうきょう)事件とともに日中戦争がはじまる。

1937年12月13日(月)
南京事件。日本軍が中華民国の首都南京市を占領し2ヶ月に渡って非戦闘員の殺害や略奪行為があった事件。しかし、中国側は「犠牲者の数は人民の感情に比例する」とされ具体的な数字は不明確とされている。

1939年9月1日(金)
ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それを機に、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦の火種となる。

1941年12月8日(月)
日中戦争中の傍ら日独伊三国軍事同盟を結び、日本はアメリカ海軍が在留するハワイの真珠湾を攻撃し「太平洋戦争」が始まる。しかし予想外の総力戦に日中戦争は泥沼化した。

1945年8月6日(月)
アメリカ軍より日本の広島に原爆が投下される。

1945年8月9日(木)
アメリカ軍より日本の長崎に原爆が投下される。

1945年8月14日(火)
日本はポツダム宣言受諾。

1945年9月2日(日)
世界規模となった第二次世界大戦の調印/終結。
日本は敗戦し、朝鮮半島は日本の植民地から解放され、のちに38度線より北側はソ連軍の軍政下になり、南側は連合国の軍政下に入る。更に日本の戦時中の朝鮮人に対する動員や微用が、一部「強制的」ないしは「自発的」であったことで後に議論が行われた。

1948年8月15日(日)
朝鮮半島の分断と初代最高指導者の就任。
南側は李承晩(い・すんまん)大統領率いる大韓民国が成立。1948年9月9日(木) 北側は金日成主席率いる朝鮮民主主義人民共和国が成立。

1950年6月25日(日)〜1953年7月27日(月)
朝鮮戦争の勃発〜休戦協定の締結。
金日成主席率いる朝鮮が中国の毛沢東主席とソ連のヨシフ・スターリン大元師の同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発し朝鮮半島全域が戦場化した大規模な国際紛争。ソ連の国連代表ヤコブ・マリク氏がラジオ放送を通じて休戦を提案し、決定打のないまま休戦協定が締結される。休戦協定には国連軍、朝鮮軍、中国軍の3者が署名した。

1959年12月14日(月)〜1984年7月25日(水) 
在日朝鮮人の帰還事業と日本人妻の移住。
朝鮮から最も近い日本海に面した新潟県の新潟港から出航。93,340人が北朝鮮へと渡り、そのうち6,839人は日本人妻や子といった日本国籍保持者だった。

1977年〜1983年頃
朝鮮人による日本人拉致発生。
日本の特定失踪者の数は868人前後。のちに元工作員や脱北者の証言をはじめ、様々な情報の一致から24名ほどの拉致被害者を確信。当時の年齢は13歳〜52歳くらいの方々が拉致されている。

1987年11月29日(日)
大韓航空機爆破事件。
乗客115人が死亡。実行犯の金賢姫(キム ヒョンヒ)元工作員は服毒自殺を図るが緊急治療により一命を取り戻す。のちに生き証人として重要人物となる。

1991年1月30日(水)
日朝首脳会談。
1991年1月30日(水)より「日朝国交正常交渉」が始まったが、1992年11月5日(木)の第8回目の交渉で中断する事態に至った。

1995年〜2000年
日本政府による朝鮮コメ支援。
1995年〜2000年までに、日本政府は朝鮮に対して総額約1700億円分(118万トン)の米を提供。当時の自民党幹事長代理の野中務氏や村山元総理大臣はこうコメントを残した。「米余りながら隣人が苦しんでいるのであれば助けるのは当然のこと。」

2002年9月17日(土)
日本の首相初の訪朝・日朝首脳会談。
平壌の百花園招待所にて、日本の小泉純一郎元総理大臣と金正日総書記による対談が行われた。拉致事実を認め謝罪をした朝鮮は、日本人拉致被害者4人の生存を明らかにし、8人の死亡を発表。その死亡者の中に当時13歳だった横田めぐみさんの死亡と、横田めぐみさんの娘となる金恩慶(キム・ウンギョン)さんの存在を明らかにした。夫は拉致被害者の金英男(キム ヨンナム)氏であるが、夫の暴力が原因で1992年3月に離婚させたとのことだ。 

2002年10月15日(火)
5名の拉致被害者帰還。
小泉首相の交渉により、5名の拉致被害者の帰還が実現した。

2004年5月22日(土)
第2回 日朝首脳会談。
平壌の大同江迎賓館にて、日本の小泉純一郎元総理大臣と金正日総書記にて再び対談が行われた。のちに食糧や医薬品など合わせて総額約70〜80億万円分を提供。

2004年11月9日(火)〜14日(日)
第3回 日朝実務者協議。
横田めぐみさんの遺骨を持ち帰りDNA鑑定をした結果、別の人間のDNAが採取された。更に亡くなったと発表された日付よりも後に横田めぐみさんの目撃情報をいくつか入手する。

2006年5月16日(火)
横田めぐみさんの父と、その元旦那の母による初対面。
ソウル松坡区にある会議室で、横田めぐみさんの父の滋さん73歳と弟の哲也さん37歳、そして元旦那の金英男氏の母である崔桂月(チェ ゲウォル)さん82歳が対面。

2006年6月28日(水)
拉致被害者の金英男(キム・ヨンナム)さんと母子再会。
朝鮮にある金剛山にて、28年ぶりに金英男さんと、その金英男さんの母(崔桂月:チェ ゲウォル)、姉(金英子:キム ヨンジャ)が再会した。金英男は拉致されたのではなく漂流して遭難してしまったところ朝鮮側に救助されたと証言。

2006年7月5日(水)
日本海に向けて「ミサイル発射実験」が行われる。
朝鮮から日本海に向けてテポドン計7発の弾道ミサイルが発射された。

日本独自制裁のはじまり。
日本海に面した新潟県は朝鮮半島から最も近く、在日朝鮮人帰還事業を契機に1971年から2006年まで万景峰号(マンギョンボンゴウ)という名前の不定期貨客線が就航していた。しかし2006年7月5日(水)に行われたミサイルの発射実験や今後の核実験の発表を受け、入港禁止とする措置を実施。当該措置を始め、入港禁止措置の延長と追加制裁が続いている。

2014年3月10日(月)〜14日(金) 
横田めぐみさんの娘・金恩慶さんと初面会。
モンゴルの首都ウランバートルで、横田めぐみさんのご両親(滋・早紀江)と孫の金恩慶さんが面会。ひ孫とも会う。

日本は2014年以来、再び外交チャンネルを無くした。

新潟県視察 2017年9月20日(水)〜21日(木)

「相手の目線に立たずに、○○生まれない」

1977年11月15日(火)、ある一人の少女が忽然と姿を消した新潟県の拉致現場を視察。

今から41年前———。

彼女の名前は横田めぐみさん。当時、海岸付近に住む13歳の彼女は学校の下校途中に姿を消した。のちに一部の朝鮮工作員に拉致されていたことが判明。

新潟駅到着 2017年9月20日(水) 21:05

横田めぐみさんがどんな少女だったか分からなければ、土地柄も分からない。私は複数のタクシーをハシゴし多くの情報を求めた。一つ分かったことは新潟の人は、タクシードライバーさんをはじめ非常に親切でフレンドリーな方が多いこと。

2017年9月21日(木) 05:34
この日の早朝にみた雲は、まるで何者かが「星」を掴みに行こうとしているように見えた。

当時の彼女が朝鮮に持っていった記憶や思い出はなんだろうか。もし彼女が言葉で直接メッセージを伝えることができないのであれば、何処にどうメッセージを残すだろうか。

もし私が彼女の立場なら、人・地名・上空などから見たときに特定の人物にしか分からない「暗号」を残すかもしれない。しかし、それは決して自分の助けを訴えるものではなく、切なさを交えた「心の想い」を残しているだろう。

1970年代/拉致現場周辺の上空

現在の朝鮮と新潟を比較


平壌の大同江川(玉流橋1960年) 新潟の信濃川(萬代橋1886年)

新潟に立つ看板

新潟県の拉致現場付近にはこのような看板が立っている。
一番左に立つ看板には、「私たちの目指す新潟」と書かれ最後の文章にはこう書かれている。「海のむこうは、友となる国々。私たちは、世界の平和の架け橋となる。1990年4月1日(日)制定。」この文章に込められた想いが本気なのであれば、必ず実現するべきである。真ん中の看板には、拉致に関する情報提供を求める看板。一番右の看板は、時計が普及していなかった100年程前はここから大砲で空砲をうち正午を知らせていたと記載されていた。

最後に。

私がこの記事を書き上げるまでに、気がつけば7ヶ月間かかってしまいました。それは、多くの感情が込み上げ、書いては消しての繰り返しをしてしまっていたからです。「戦争」を話題に取り入れることで、誰も傷つかない記事を書くのは本当に難しいことだと実感しました。

日本と朝鮮の間に残された離散家族問題と、アメリカが日本に落とした原爆を振り返ると、怒りと悲しみ、そして不思議と未来さえ感じます。

何故なら日本とアメリカは、今まさに戦争の過去から新たな未来を共に築こうとしているからかもしれません。

これは朝鮮統一をはじめ、今後の世界に言えることです。それは、一度失った信用を取り戻すことは不可能ですが、新たな信用を築くことは出来るということを示しています。

日々、他人事のように感じている「非現実的」な出来事もいつ自分事になるか分かりません。だからこそ、周りに対する「感謝」を常に感じるようになりました。

私に出来ることは、日本で40年以上も家族の帰還を待つ「離散家族再会」の実現に向けて自ら現地のルールに基づき国民の方と関係を築いていくことです。そして少しでも世界が朝鮮に対する偏見を緩和できるように、自らの肌で感じたことを記事に残していくことです。

過去と他人を変えることは出来ませんが、自分と未来は変えられます。
そして他人に「きっかけ」をつくることもできます。

さらに、人は環境と共に進化していく生き物であり、言葉も進化していきます。

だからこそ、私達は人との「対話」を決して諦めてはいけません。何故なら「言葉の力」こそ、人の心に一番浸透しやすいからです。

最後までお読みいただき、有難う御座いました。

2018年2月作成

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